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名古屋高等裁判所 昭和34年(ネ)517号 判決

控訴人(原告)

桜井融愷

被控訴人(被告)

名古屋市外一名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取り消す。被控訴人等は控訴人に対し、各自金五八万二四五〇円およびこれに対する昭和三一年九月三日より右完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人等の負担とする」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は、それぞれ控訴棄却の判決を求めた。当事者双方の事実上の主張、証拠の提出援用および書証の認否は、控訴人において、甲第六号証、第七号証の一、二を提出し、証人板倉兵吉、真野常雄、竹田円および控訴人本人の各尋問を求め、被控訴人中野および名古屋市において、証人森義昭の尋問を求め、被控訴人全員において、甲第七号証の一、二の成立を認め、同第六号証の成立を不知と答えた外、原判決の事実摘示と同一であるから、ここにこれを引用する。

理由

当裁判所の判断によるも、控訴人の本訴請求はいずれも失当であつて、これを容認しがたいものと考える。その理由については原判決の説示するとおりであるから、左記の理由を補足する外、原判決の理由記載をここに引用する。

一、被控訴人中野が控訴人に対し行つた退職勧奨については過失を認め得ない。

成立に争のない甲第一号証の記載によると、昭和二九年七月一日公布施行された愛知県条例第二七号公立学校職員の退職手当に関する条例第四条第一項には、「二〇年以上勤続しその者の非違によることなく勧奨を受け退職するもので、愛知県教育委員会の承認を得て退職した者」に対しては、その各勤続年数に応じて所定の特別の退職手当金を支給することが規定せられ、且つ右条例は昭和二八年八月一日以後の退職による退職手当金について適用せられる旨定めている。すなわち、右特別退職手当金の支給を受けるためには、愛知県立又は愛知県内の各市町村立の学校に二〇年以上勤続すること、その非違によることなく勧奨を受けて退職すること、並に愛知県教育委員会の承認を得て退職することが必要とせられるのである。ところで、控訴人は、愛知県下の各公立小学校に大正二年以来満四〇年にわたり勤務し、昭和二九年八月三一日名古屋市立西築地小学校教諭を退職したものであることは当事者間に争なく、又、成立に争のない甲第三号証の一ないし四、原審並に当審における控訴人本人尋問の結果によれば、控訴人は、その在職期間中文部大臣その他から屡々表彰を受け、県下初等教育界のため尽した功績は顕著であつたこと、および、控訴人が前記のように退職したのは、主として名古屋市教育委員会の主事である被控訴人中野から、その長期間在勤の故をもつて退職を勧奨せられ、これに応じて退職の申出をしたものであることが窺われるから、控訴人の右退職に関しては、前記条例所定の諸要件のうち、県教育委員会の承認の点を除きその他の要件をすべて具備していたものと認むべきである。しかして、右県教育委員会の承認も、控訴人が前述の如く長年月にわたり勤続し教育上の功績が顕著であつたことに鑑みれば、県教育委員会としても、控訴人をして前記特別退職金を受けさせるため、異議なくその承認を与うべき事情にあつたものと推測し得るのである(現に、原審証人武陵包二の供述によれば、昭和三〇年度以降の退職者に関しては、勤続二〇年以上で非違によることなく勧奨を受けて退職した者に対して、例外なく県教育委員会の承認が与えられている)。したがつて、原判決も認定するように、被控訴人中野が昭和二九年七月中控訴人に対し、前示県条例が公布せられたことを告げ、控訴人についても右条例が適用せられ普通の退職手当金に比し約六割増の特別の退職手当金が支給せらるべき旨述べて退職の勧奨を行つたことは、当時の被控訴人中野の立場として一応無理からぬ処置であつたとして肯認せられ得るのである。

もつとも、原審証人武陵包二および当審証人森義昭の各証言によれば、前記勧奨退職者に対する特別退職手当金の支給は、もつぱら県(愛知県)の財政によつて賄われるところであり、従つて、県の予算上の措置がなければ、右特別退職金の支給も実現できず、県教育委員会においても事実上承認を与え得ない関係にあつたとは否定し得ぬところである。本件において、原判決も説示するように、控訴人をも含めた昭和二九年度中の勧奨退職者に対しては、県の予算上の措置が講じられなかつたため、県教育委員会の承認は与えられず、控訴人も従つて県教育委員会の承認を受け得ず、特別退職手当金の支給を受くる機会を逸してしまつたのである。しかし、右の結果は上述のように、控訴人に対し退職勧奨を行つた被控訴人中野の過失に帰し得ないこと明らかである。けだし、上記の如く本件県条例は昭和二九年七月一日に公布施行せられ、しかも昭和二八年八月一日以後の退職者に対し遡及して適用せられる旨明規しているのであるから、原審並に当審における被控訴人中野の本人尋問の結果によつて認め得るように、当時名古屋市教育委員会の主事として専ら市内における各学校の教育行政に従事していたが、県の予算編成事務その他県の一般財政事務に関与していなかつた被控訴人中野としては、右勧奨に当り勧奨退職による特別退職金に関する県の予算措置について深く注意を払わず、右条例が公布施行せられた以上県の予算措置も当然これに随伴し、勧奨による退職者に対し県教育委員会の承認がなされ特別退職金の支給があるものと考えたことは、一応もつともなこととして是認されるのである。右の点に関し被控訴人中野に著しい不注意が存したことは、控訴人の全立証によつてもこれを肯定し得ない。

もともと、財政上の支出を伴うべき行政処置に関しては、これに対する予算上の裏付けがなければ、その実現を期待し得ないこと当然の理であるが、苟くも県において前示のような内容の条例を制定公布した以上、一般人が、これに予算上の裏付けが随伴し勧奨退職者に対し当然特別退職手当金の支給があるものと信ずることは、社会通念上よりして止むを得ないところである。県として、右のような誤解が生ずることを防ぐためには、その条例の公布に際して格段の配慮を施すべき必要が存したのである(それ故にこそ、成立に争のない丙第一号証によれば、本件勧奨退職の行われた後である昭和三〇年一一月二四日に公布された本件条例施行規則中には、県教育委員会の承認(すなわち特別退職手当金の支給)は「予算の範囲内においてこれを行う」旨明記して、一般関係人の注意を喚起することになつたと解せられるのである)。

要するに、本件退職勧奨当時、被控訴人中野としては、控訴人に対して県教育委員会の承認がなされ特別退職金の支給があるものと信じて勧奨を行つたのであり(このことは、原審並に当審における被控訴人中野の供述を当審証人森義昭の証言および本件弁論の全趣旨に照して考察すれば推測するに充分である)、右は当時の客観的状況上無理からぬ処置であつたとして妥当視し得るのである。

本件において、控訴人は前記特別退職手当金の支給を受け得るものと信じ、被控訴人中野の勧奨に応じて退職の申出をしたものであり、それにも拘らず、予期に反して右特別退職手当金の支給を受けられず不測の損失を被つたことは、同情を禁じ得ない次第であるが、その原因は、そもそも予算上の措置を講せずして漫然前記のような条例を(しかも、昭和二十八年八月一日に遡及して適用することまで附言して)公布施行した県当局の軽卒な態度にあるのであつて、その手落ちこそ非難さるべきであるが、その責任を被控訴人中野に転嫁し、同被控訴人に本件退職勧奨に関して過失があり、不法行為上の損害賠償責任ありとなすことは、とうてい首肯しがたいところである。よつて、右の点に関する控訴人の主張は失当でこれを採用し得ない。

二、成立に争のない甲第七号証の一、二、当審における控訴本人の供述により成立を認め得る甲第六号証、当審証人板倉兵吉、真野常雄、竹田円の各証言並びに当審における控訴人本人尋問の結果によつても、以上の認定および原判決の各認定事実をくつがえすに足らず、他に、該認定を左右すべき証拠は存しない。

右述の次第で、原判決の判断は相当であり、本件控訴は理由がないと認められるから、これを棄却すべきものとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法第九五条第八九条を適用して、主文のように判決する。

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